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祐一「終わったーっ」 もう雪の覆いも取れ始めた水瀬家の中で、俺の叫び声がかなり控えめに響く。 控えめなのはもちろん気を使っているからだ。色々と。 終わったのは数学の宿題。 学校にいる間に終わらせようと張り切って取り組んで、結局終わらなかったヤツだ。 家に帰ってまで意味不明な方程式を解く気にはならない。 結局、自分の部屋で解くことになってしまったが…。 椅子を離れ、手足を十分に伸ばすとベッドへ倒れ込む。 これでやっと自由の身になった。 あと4時間も無いが、今日という1日を(学生として)怠慢に過ごしてやろう。と、怠慢するくせに意気込みは強い。 祐一「先に風呂へ入るか…」 不幸にも昼のアイス地獄が脳裏をかすめてしまい、俺は暖かい物が恋しくなる。 暦では春真っ盛りだが、この雪国ではまだ東京の1月並の気温だ。 そんな雪国の人間が欲しがる暖かい物と言えば各種の暖房装置。 だが、俺が求めているのはそういう物ではなく、冷え切って凍りついてしまった心までも融かしてくれる何かだ。 エアコンの、あの単調な風では融かすことはできない。 しっかりと包み込んでくれるような感覚がなければ…。 というわけで、風呂へ入る。 まだ名雪が入っているはずだから、リビングでゆっくり待つことにしよう。 しかしいつも以上に怠慢に過ごすはずなのに、結局やることは大して変わっていない。 いつも怠慢だということか? 支度をするためベッドから起きようとしたとき、ドアをノックする音が聞こえてくる。 祐一「はい」 名雪「祐一、えっと……ちょっといい?」 秋子さんだと思ったが、ノックしたのは名雪だった。 もう風呂から上がったのだろうか。 祐一「入ってきていいぞ」 名雪「うん…」 ドアが開くと猫の足跡がふんだんに模されたパジャマ姿の名雪がいた。 よく見ると髪は湿っていて、頬も赤く上気して、いかにも風呂から上がって俺の部屋へ直行してきたように見える。 部屋にはシャンプーだか石鹸だかの香りが漂い始め、それが名雪の匂いなのだろうと錯覚してしまいそうになる。 そして名雪がドアを閉めると、俺と名雪とその匂いしか存在しない空間が出来上がった。 無機質だった部屋の空気に名雪が加わったことでその空気は有機的に思えるようになり、俺の冷え固まった心を融かし始める。 祐一「どうした?」 名雪「う、うん。えっとね……」 上目遣いで、困ったような顔をして俺の方を見る。 なんだ? 俺は何かしないといけないのか? 名雪「祐一ぃ…」 祐一「あ、ああ」 両手の指を腹の上辺りで小刻みにじれったく動かす。 その仕草が何を示すのか分からない俺は……いや、なんとなく分からなくもないのだが、今さらそれは無いだろうと考え直すとやはり分からなくなってしまい、十数秒の気まずい時間が流れる。 名雪「わたし、実はね…」 祐一「……」 俺が返事をするだけでも話が進まなくなってしまうように思えたので、沈黙で先を促す。 名雪の目は俺の顔と床を行ったり来たりだ。 名雪「お風呂に入りながらずっと考えてたんだけど…」 その割には出るのが早いような気がする。 先に入るとか言ってきてからまだ2、30分しか経っていない。 名雪「その……学校に…」 学校? 名雪「忘れ物してきちゃったみたい」 祐一「………は?」 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 外に出れば星空。 それらは月の光にかすんでしまいそうだが、それはそれで独特の美しさがあると思う。 足下には残雪。 この町に引っ越してきてからずっと悩まされてきたが、それももうすぐ終わると思うとなぜか残念に思う。 目指すものは学校にある。 前にもこんな事があったが、確かその時は俺ひとりで向かったと思う。 名雪「ゴメンね、祐一」 祐一「ま、暇だったからな」 ついでに夜食を調達しようと思い立ったのはしばらく秘密にしておく。 奢れと言われる確率を低くするためだが、名雪の脳回路の仕組み次第でこれは無駄なあがきになるかもしれない。 祐一「それより、名雪まで来なくてもよかったのに」 名雪「うーん、やっぱりわたしが悪いんだし、それに……ちょっとお散歩したかったから」 うつむき気味にそう言う名雪の顔は、暗くてよく分からない。 毎夜寝ながら散歩しているくせに、元気なやつだ。 祐一「湯冷めしても知らないぞ」 名雪「それは大丈夫だよ」 そう言われて、名雪の着ている服を観察する。 暗闇の中、辛うじて見えるのはスマートな形の赤いロングコート。 しかし、背中に付いている猫の顔を模した大きなマークのおかげで、格好いいと言うべきか可愛いと言うべきか評論が別れるところだ。 祐一「でも、夜の学校へ行くのは久しぶりだな」 そこで一人の知り合いのことを思い出す。 あいつは今、何をしているんだろうか? 名雪「祐一、何度か遊びに行ってたよね」 長くて黒い髪から、いつも石鹸の匂いをさせていた少女。 最近さっぱり会わなくなってしまったあいつは元気にしているだろうか? 祐一「別に遊びに行ってたわけじゃない」 学校の階段の、一番上で半分ピクニック気分になりながら食事をしたことを思い出す。 あいつはまだ佐祐理さんと仲良くしているのだろうか…。 名雪「祐一、祐一」 いろいろと思いを巡らしていると、名雪が袖を引っ張ってくる。 さっきっから返事がおざなりなので拗ねてしまっただろうか。 祐一「なんだ?」 名雪「通り過ぎてるよ、学校」 祐一「……この先に通用口があるんだ」 名雪「そんなの無いよ」 ノリの悪い奴だが、予想できる返事でもあった。 その一つの、予想通りの答えが返ってきたのが癪なので裏口まで回ってやろうと思ったが、寒いので止めておく。 祐一「よっと」 鉄の門を押すと重苦しそうなその外見とは裏腹に、案外あっけなく簡単に開いた。 見たことはないがよく手入れしている奴がいるのだろう。 祐一「足下気を付けろよ…って、なにしてんだ」 嫌に静かなので名雪の方を見ると、その顔はどんな変化も見逃さないような厳しいような怯えるような表情で校舎の方を向いていた。 名雪「今、何か動いてなかった?」 言われて俺も校舎の方をよく観察してみる。 いびつな雪だるまが立っている以外、特に気になるものはない。 祐一「錯覚だろ。寝不足なんじゃ……んなわけないか」 言っている途中で、学校帰りに名雪を叩き起こしたことを思い出した。 こいつの場合は寝過ぎだ。 もっとも今日は、アイスの食いすぎで調子が悪かったというのもあるのだが…。 名雪「うー、誰か居るのかな、それとも…」 祐一「この世ならざる者か」 俺は少し悪乗りして、そう名雪に返してみる。 すると名雪の表情は明らかに怯えるような表情になった。 鈍感そうな名雪だが、さすがに誰もいない闇の学校では普通の女子高校生らしい反応をするようだ。 名雪「じょ、冗談だよね」 祐一「宇宙人かもしれないぞ」 さらに悪乗りをした俺だが… 名雪「わ、それは会いたいよ〜」 逆に喜ばせてしまった。 やはり普通の女子高校生とは何処かずれているようだ。 きっと今の名雪の頭には、宇宙服を着たケロピーの姿でも浮かんでいるんだろう。 名雪「けろぴ〜」 名雪の心理分析は簡単化もしれない。 無防備に開いていた昇降口から校舎の中へ侵入すると、銀色のような独特の雰囲気を持つ月明かりが廊下を照らしていた。 名雪「思ったより明るいね」 祐一「満月だからな」 朝、学校へ来たときの気分で階段を上り、教室がある階の廊下へたどり着いたとき、一瞬銀の明かりが消える。 名雪「え、あれ?」 祐一「雲が出てきたか?」 窓から覗くと、見た目にも速い速度で移動する雲が、いくつか見て取れた。 名雪「あ、明るくなった」 雲の向こうに、再び月が現れ、辺り一帯を照らす。 案外、月の光は眩しいものなんだな。 祐一「月見はあとでゆっくりするとして、先に用事を片付けるぞ」 名雪「そうだね」 廊下を歩き出すとまた月が雲に隠れ視界がほとんど利かなくなるが、それでも毎日歩いているのだから勘を頼りに歩いていくと、程なくして月明かりが戻る。 しかしその先には全く想像できなかったものが現れていた。 名雪「わ、誰か居るよ祐一」 見えたのはこの学校の制服。 警備員ではなかったので安心するのだが、その顔を照らすはずの明かりが何かに遮られていて誰なのかは分からない。 しかしこんな時間に学校にいる奴といえば、1人だけ心当たりがある。 祐一「…舞か?」 呼び掛けてみたが、特にこれといった反応はない。 人違いだっただろうか? 名雪「もしかして、7777人目の卒業生!?」 祐一「なんだそりゃ?」 唐突に名雪も想像できないことを言い出した。 あまりにも突飛すぎる名雪の発言は、月の動きさえも止めてしまいそうだ。 名雪「ほら、この前、香里が話してたやつだよ」 この前と言うと……そういえば春休みに香里が水瀬家へ泊まりに来たとき、怪談話を聞いた覚えがある。 あれは確か何十年も昔、まだこの学校が旧校舎を使っていた頃。 この学校で7777人目の卒業生になった生徒が、卒業式の直後に同級生の元生徒会長にむりやり迫られ、誤って窓から落ち転落死したという事件があったらしい。 その生徒の霊は元生徒会長へ恨みを晴らすべく、今もこの学校でたびたび目撃されているという…。 祐一「やっぱり舞だろ?」 俺は一瞬で7777説を否定し、一番現実味のある答えを求めた。 幽霊よりも、その話の方が作り話っぽいのだ。 名雪「呼び掛けちゃダメだよ、取り憑かれちゃうよっ」 俺の声に慌てて、腕を引っ張ってくる名雪。 どうやら本気で7777説を信じているようだ。 祐一「いや、あれは1つ上の……?」 説明しようとして、そこで初めて間違いに気付く。 その人物が着ている制服のリボンは、舞が付けるべき色ではないのだ。 だいたい舞はとっくに卒業しているから、制服を着てくるはずがなく…。 奴「フフフ…」 祐一「……」 俺は戦慄を感じ始めていた。 舞ではないのなら、あれこそ舞が戦っていた魔物なのではないのか? 7777説より危険だ。 もしもの時を考え、ここは撤退しておくべきだろう。 だが俺の行動は既に遅く、気付いたときには奴が走って一気に間合いを詰めてきていた。 祐一「名雪走れ!!」 名雪「きゃ!」 しかし勢いを付けようとして俺が押したのがいけなかったのか、名雪はつまずいて転んでしまう。 振り向いたときはもう、目前まで奴が迫っていた。 祐一「くそっ」 奴「くふふ…」 祐一「ん?」 奴は突然人間の声で笑い始める。 それも若い女性の声でだ。 奴「くははははははっ」 祐一「なんなんだ?」 暗い廊下に、少し下品じみた笑い声が響く。 幻想的にも見える銀の光に照らされた校舎へ色が付くようだ。 奴「ゴメン、ゴメン。つい脅かしてみたくなっちゃって」 それはどこかで聞き覚えのある声。 祐一「誰だお前は」 奴「うく、まだ分からないの?」 最近聞いたような声音と口癖は呆れたように言い、よく見えない顔は俺を覗き込んでいるようだ。 名雪「……菜瑠?」 弱々しい声が名雪の口から漏れ、俺はようやく納得できた。 菜瑠「ピンポンピンポーン! 大正解っ」 やかましい転校生が、飛び跳ねて正解者を祝福している。 祐一「お前、もう少し大人しく登場できないのかっ。心臓バクバク言ってるぞっ」 確認するように自分の胸を手で押さえると、確かに激しい鼓動を感じる。 突然止まってしまいそうで怖い程だ。 菜瑠「くふふ、ちょっとやり過ぎたかな」 祐一「当たり前だ。名雪なんか見てみろ」 菜瑠「え?」 と言っておきながら、俺は今さら名雪を確認する。 名雪「……ぐすっ」 名雪の目は、そのまぶたからあと少しで零れ出しそうなほどの涙を浮かべていた。 祐一「ぐあ、本当に泣いてるじゃないかっ」 菜瑠「ゴメン、ほんの出来心だったんだよ〜っ」 手を合わせて謝っているが既に手遅れだ。 祐一「男が女の子を泣かしちゃいけないぞ」 場を和ますため、俺はそんなことを言い始めてみる。 菜瑠「うく、私も女の子だよっ」 俺の考えを理解しているわけではないのだろうが、必死そうな口調で反論してくる。 ねらい通りだ。 祐一「夜中に1人で出歩く女の子がどこにいる」 菜瑠「ここにいるよっ。それに、そういう人は結構いると思うよ」 頭の中に夜な夜な剣を持ち学校を徘徊する人物の顔が浮かぶ。 祐一「……そうだな、それは俺が間違っていた。認めよう」 菜瑠「嘘つき嘘つき〜ぃ」 俺は早くも敗戦宣言を出したが、それを受けた菜瑠の言い様に向きになってしまい更に後を続ける。 祐一「悪質な通り魔には言われたくないぞ」 菜瑠「誰が通り魔よっ」 祐一「誰だと思う?」 菜瑠「うくっ、その哀れむような目で見るのはやめてよっ」 いつの間にか手段が目的になっているような気がする。 名雪「…ははっ、も、もういいよ。今度は笑い死にしちゃいそう」 名雪はさっきまでの顔が嘘のように笑顔を覗かせていた。 考えてみると前にもこんなことがあった。 あれは確か栞と初めて会ったときか。 祐一「それで、菜瑠は何しに来たんだ?」 菜瑠「え? あ、えっと…ちょっと、忘れものしちゃってね」 祐一「何だ、名雪と同じか」 菜瑠「そうなの?」 そう言って菜瑠は軽く首をかしげる。 名雪「うん、宿題持って帰るの忘れちゃって」 菜瑠「あっ、私も忘れてた」 手を打って、俺の方を見てから頷く。 まるで俺に同意を求めるかのようだ。 祐一「おまえ、いくつ忘れ物したんだよ」 菜瑠「ん〜…、自分の身ごと」 祐一「それは帰ってないだけじゃないかっ」 そういえば、菜瑠は制服のままだった。 名雪「お昼寝?」 自分すら忘れたという事は、名雪が言う通りの意味なのだろう。 学校から家へ帰るような夢でも見ていたのか。 菜瑠「えっと、似たようなものかな?」 祐一「ん? なんだそりゃ」 菜瑠「え? …あ、つまりー、昼寝って割には起きたとき真っ暗だったってこと」 祐一「…ああ、そうだな」 要は昼寝のつもりが夜まで寝てしまったということらしい。 名雪「菜瑠〜、早く終わらせて帰ろうよー」 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 祐一「菜瑠はこっちでいいのか?」 菜瑠「当たらずとも遠からずかな」 祐一「何なんだそれは…」 心なしか、さっきよりも寒く感じる通学路を下る。 なぜか行きよりも1人増えているが、目的は達成できたので良しとしよう。 ちなみに住所不定…いや、不明のクラスメイトは、ほぼ寝ている名雪に肩を枕代わりにされて重そうにしている。 名雪のやつ、この状態で今から宿題ができるのだろうか? 名雪「今夜は寝かさないおー…」 こいつなら眠りながら宿題ができるかもしれない。 菜瑠「名雪って器用」 寝ながら歩くことは知っていたが、更に人のペースに合わせて進めるのは知らなかった。 祐一「見てるこっちが疲れそうだな」 菜瑠「私の方が疲れるよ〜」 祐一「……それはさておき」 菜瑠「おかないでよっ」 祐一「俺は何かを忘れている」 突然ふと思い出す。 こんな時間に外出したのは名雪の忘れ物以外に何か目的があったはずだ。 菜瑠「まだ何かあったの?」 祐一「名雪の用事のついでだったんだが……ああ、夜食の調達だ。近くのコンビニに寄る」 菜瑠がいいかげん名雪を支えるのに疲れて見せた顔が、俺に外出したもうひとつの目的を思い出させた。 菜瑠「祐一の奢り?」 祐一「なんでいきなり菜瑠に奢らないといけなくなるんだ。……ま、今日は災難に巻き込んだし、1度くらいはいいか」 菜瑠「うぅ、思い出しちゃったじゃない。アイスはしばらく見たくない…」 特にそれの溶けかかったやつだ。 想像するだけで気分が悪くなる。 名雪「…うにゅ、いちごのあいす……」 祐一「やめてくれっ」 とんでもないことを言う名雪の胃はチタン製なのか? 菜瑠「そういえば、イチゴのアイスを見かけたのに食べなかったなぁ。なんでだろ?」 祐一「それは全部名雪が喰ったからだ」 菜瑠「えっ、全部!?」 祐一「ああ、こいつはイチゴを危ない薬か何かと勘違いしてる節があるからな」 菜瑠「うく……将来が不安だね」 名雪「う〜…あいすはやめてお〜……」 菜瑠「あ、うなされてる」 見ると、眉をしかめ口をへの字型に曲げている。 さすがに名雪でもキツイようだ。 祐一「後から手を出したチョコアイスかもしれないな」 菜瑠「うく、あれが一番つらかったよ」 俺としては一緒にあった抹茶と大差ないと思う。 麻痺していただけかもしれないが。 菜瑠「でも、それでよく今から食べようなんて思うわけ?」 祐一「あのあと食欲が湧かないから、夕食を食べてないんだ」 それなら残り物がまだあると思うだろうが、秋子さんが料理を始める前に食事はいらないと言ってしまったので、“材料”しか残されていないのだ。 今から作ってもらうのも気が引けるし、名雪は宿題をすると言うし、俺は焼きそば焼くくらいしかできないし、だから一人暮らしのオアシスであるコンビニに頼る。 菜瑠「ふぅん。……私もだ」 祐一「朝まで寝るつもりだったのか」 菜瑠「危なかったよ」 今の返事を聞いたら、なんとなく名雪に似ているような気がしてきた。 祐一「もしかして、料理はできる方か?」 菜瑠「うん、得意だよ」 嬉しそうにはっきり答える。 祐一「カエルの縫いぐるみを抱いて寝てるだろう」 菜瑠「カエル?」 反応が鈍い。 名雪とは違うのか…。 祐一「聞かなかったことにしてくれ」 菜瑠「そういう事にしておくよ」 そこでしばらく会話が途切れる。 やはり名雪が重いのか、菜瑠の口からは小刻みに白い息が漏れている。 少し休憩してやろうかと足を止めようと思ったとき、先に菜瑠の足が止まった。 菜瑠「ここ、眺めいいんだね。知らなかった」 ちょうど上り坂が下り坂になるところだった。 特に急というわけではないが通学路にはこうした起伏がたまにある。 毎日走らされる身としては十分辛い傾斜だが、今立っている所はその中でも一番高いところだった。 ここは商店街や駅の辺りが一望できて、この時間になると線路に沿って伸びるように光る電灯が、天の川を彷彿とさせるように流れている。 菜瑠「星の海みたい」 川が海になってしまった。 菜瑠は俺よりも広い世界を見ているのだろうか。 菜瑠「私たちもこの海の中にいるんだよね」 祐一「そうだな」 菜瑠はなぜが寂しげな表情をする。 まるで世界を見下ろすようにしている姿を見ていると菜瑠が危ういものに感じてしまい、俺は声を出さずにはいられなくなった。 祐一「お前って……そうして黙ってると美人だよな」 何を言ってるんだ、俺は。 言うことに事欠いてこんな発言をするとは…。 今まではそういうことに疎い方だったが、栞とつきあい始めてから気にするようになったと思う。 どこかで栞と比べようとしているのかもしれない。 菜瑠「黙ってればってどういうこと!?」 菜瑠が噛みつかんばかりに大きく口を開けて言う。 言ってるそばからこれだ。 祐一「いや、だから…、つまり絵になるって事だ」 菜瑠「煽てたって何も出ないわよ」 祐一「俺だってそういうつもりで言った訳じゃない」 菜瑠「じゃあどういうつもりよっ」 祐一「それは…」 簡単に吹き消せるロウソクの炎のように、菜瑠が儚いものに見えたから。 名雪「祐一ぃ〜、浮気はダメだお〜…」 ……名雪というのは、寝ているように見える時こそ覚醒しているのではないのかと思う事がよくある。 すると授業中は寝ているようで起きていて、部活の時は起きているようで寝ているのだろうか。 しかしこれは良いタイミングだった。 これ以上言及されてもうまく返せそうもない。 菜瑠「うんうん、浮気は良くない」 名雪の言葉に妙な同意を見せる菜瑠。 ここで一気に話題を変えてしまおう。 祐一「この街って、昔と変わったように見えるか」 菜瑠「昔と?」 祐一「俺が7年ぶりに戻ってきたときはだいぶ変わったように見えたんだけど、案外変わってないんじゃないかって思うところもあるんだ。菜瑠はどうだ?」 菜瑠「う〜ん、どうかなぁ…」 俺たちは止めていた足を再び動かし、眼下に見える星空へと降りていく。 菜瑠「新しくなったところもあれば昔のままのところもある。でもいつか全部変わっちゃうんじゃないかな。ここから出ていった人は離れていた時間だけ、過去に取り残されるんだよ」 思い出は戻らない……ということか。 菜瑠「よいしょっと」 完全に夢の世界へ旅立ち、自力で立とうとさえしなくなった名雪の腕を持って背負っている。 これ以上は明日に響きそうだ。 祐一「ほら、代わるぞ」 菜瑠「あ、うん。って、もっと早く代わりなさいよ」 祐一「好きでやってるんじゃなかったのか」 菜瑠「そんなわけないじゃないっ」 祐一「そうだよな…」 本当は悪戦苦闘している姿が面白かったからだ。 今度は俺が名雪を背負う。 昔もこんな感じで名雪をおぶって帰ったことがあった。 あのときは公園で遊び疲れて寝てしまったんだ。 公園はもう無くなってしまったらしいが、今の俺ははっきりと思い出すことができる。 そうだ、7年前はこんなに大きくなかった。 名雪も俺も。 公園と共に消えてしまった思い出だ。 祐一「そのうち雪が降らない街になるかもな」 菜瑠「それは生きてるうちはないと思うよ」 祐一「だろうな」 そしてありもしない未来を想像する。 すぐに忘れ去られてしまう、思い出よりも脆弱な世界を。 菜瑠「私この街が好き。嫌いなところもあるけど」 祐一「何が嫌いなんだ?」 訊くと菜瑠はまた光に飾られた街を見下ろす。 もうだいぶ降りてきたから、駅の辺りはほとんど見えない。 菜瑠「うーん……白いところかな」 最近はもうほとんど降らなくなっている雪は溶け始めているが、まだ至る所に残っている。 祐一「雪が嫌いなのか?」 菜瑠「そういう訳じゃないけど、…いろいろ思うところがあるんだよ」 一言では表せないのか、それとも話したくないのか。 ただまっすぐ前を見て歩いていた。 祐一「俺もちょっと前までこの街が嫌いだった。でも本当は嫌なことがあって、それから逃げようとしていただけだったんだ。逃避していることに気付かなかったら俺は大事なものを失ってただろう。……いや、こんな話するべきじゃなかったな」 よく考えれば目の前にいるのはあゆの親族だ。 これ以上は止めておいた方がいいか。 菜瑠「それってあゆのこと?」 ストレートに訊かれ、俺は一瞬立ちすくむ。 しかし菜瑠には昼に話してあるから余計なことを考える必要はないだろう。 祐一「そうだ」 菜瑠「そっか…」 どんな顔をするだろうと思っていたが、それは笑顔だった。 何の含みも感じさせない、嬉しそうな微笑みだった。 菜瑠「もうこの街には、あゆのことを覚えてる人はいないと思ってたよ」 忘れられない限り人は生き続ける。 そう、まだあゆは生きている。 俺たちの記憶の中で元気に走り回っている。 そして、いつかは……。 祐一「なあ、どうして7年も経った今ここに来たんだ。来るならもっと早くてもよかったんじゃないのか?」 昼にも少し訊いたが、今の菜瑠の笑顔を見ているとこんな長いあいだ親友を放ったらかしにしていたのが納得できない。 高校入学の時でも良かったはずだ。 菜瑠「…えっと、心身の問題?」 祐一「なんで俺に聞くんだ」 菜瑠「だから、気持ちの整理とか…」 祐一「そうか」 菜瑠には菜瑠の、乗り越えないといけないものがあったのかもしれない。 これ以上詮索するものじゃないだろう。 菜瑠「ところでさ…」 祐一「ん?」 菜瑠に釣られ足を止める。 菜瑠「商店街まで来ちゃったけど、よかったの?」 正面をよく見てみると、いつの間にか商店街の入り口。 菜瑠と話し込んでいて道を間違えたようだ。 祐一「…ここにもコンビニはある」 菜瑠「ご苦労さま」 多くの店が閉店時間を迎えているが、この時間でも営業している店が何軒かあるようだ。 ほとんどは仕事帰りのサラリーマン相手だが、その中にコンビニの姿もある。 名雪を背負い直してコンビニへ入ろうとすると、菜瑠も俺に続こうとしていた。 祐一「お前、帰らなくていいのか?」 菜瑠「暇だもん」 確かに暇そうに見えるが、家族の方は…… 祐一「もしかして一人暮らしか?」 菜瑠「あ、…うん、そうだよ」 俺と違って生活力があるということか。 祐一「あんまり夜遊びしてると補導されるぞ」 菜瑠「祐一たちもね」 今度こそコンビニへ入る。 狭い店内には様々な商品がひしめいていて、それらを一つ一つしゃがみ込んでチェックしている長い黒髪の店員が見える。 祐一「おい名雪、いいかげん起きろ」 名雪「くー…」 背負ったまま揺れたり跳ねたりしてみるが、この程度で目を覚ます名雪ではない。 仕方ないので起こすのは諦め、どこか邪魔にならないところにでも置いておくことにした。 祐一「ここならいいよな」 一番広く空いていたアイスが入っているケースの前に、上半身を寄りかからせるように座らせる。 店員「やっぱり祐一さんだ〜っ」 真横から聞こえてくる聞き覚えのある声。 祐一「佐祐理さん?」 佐祐理「はいっ、佐祐理ですよーっ」 脳天気そうに声を掛けてきたのは、3月に学校を卒業していった佐祐理さんだった。 会うのは卒業式以来で私服姿は初めて見たが、いつもの大きなリボンと白いYシャツにピンクのエプロンをつけている。 ……エプロンか。 祐一「もしかしてバイトしてるのか?」 佐祐理「2週間くらい前に電話で話しましたよ?」 祐一「え? ああ、そういえばそうだったな…」 確かに佐祐理さんから電話があったが、あゆのことや新学期の準備で忘れてしまっていた。 佐祐理「祐一さんは、もう卒業した佐祐理のことなんかどうでもいいんですね…」 突然、佐祐理さんは目頭を押さえて後ろを向いた。 菜瑠「あ、祐一が泣かせた〜」 まるで結託していたかのように菜瑠が俺を非難する。 祐一「まて、どうでもいいなんて言ってないぞ」 佐祐理「同じことですっ」 祐一「だから、そういう意味じゃなくて…」 佐祐理「もう知りませんっ」 どうにか機嫌を取ろうとするが、聞く耳持たずといった感じで手に負えない。 そうこうしているうちに、俺は後頭部に強い打撃を受けた。 祐一「くっ、なんだぁ!?」 声「佐祐理を泣かすな」 振り返ったときにもう一撃額に受ける。 飛んできたのは誰かの右手。チョップだ。 元を辿ってみると、なんとなく予想はしていたがやはり舞だった。 佐祐理「嘘だよ嘘、ごめんね舞」 舞「佐祐理は悪くない。謝らなくていい」 思いっきり嘘泣きだったようだ。 そして今度は佐祐理さんが困り始めてしまう。 しかしこれは、2人がそれだけ仲がいいという事を表しているのだろう。 佐祐理さんはなんとか舞に俺をからかっていたことを説明し、俺の容疑は晴れた。 舞「祐一、…悪かった」 ぶっきらぼうに言ってくるが、舞の本心を悟るのは難しい。 わずかな表情の変化が、本当に申し訳ないと思っている事を知らせている。 祐一「気にしなくていいぞ」 舞「そう。じゃあ、仕事あるから」 やはり不愛敬に言って近くの棚へ向かい商品の数を数え始める。 店へ入ってきたときに見た店員は舞だったようだ。 菜瑠「えっと、祐一の知り合い……だよね?」 会話が途切れたところで菜瑠が興味津々と訊いてくる。 祐一「ああ、学校の先輩だ。先月卒業したけどな」 佐祐理「倉田佐祐理ですーっ」 菜瑠「今日、相沢君のクラスに転校してきた月宮菜瑠です」 相変わらず人懐こそうな佐祐理さんに対し、朝より少し落ち着いた挨拶の菜瑠。 佐祐理「そうなんですか。大変ですねーっ」 佐祐理さんのほのぼのした口調だと、全く大変そうな感じがしない。 実際に、菜瑠本人も急がしそうにしている素振りが無い。 祐一「それとあそこにいるのが…」 舞を紹介しようとその方を見ると、こっちの様子を窺っていたらしい舞が慌てて作業に戻る。 しかしその行動は一歩遅く、菜瑠も佐祐理さんもそれをしっかり見ていた。 祐一「…あれは川澄舞。佐祐理さんの同級生だ」 菜瑠「つ、月宮菜瑠です。よろしくね」 舞「よろしく」 舞は何もなかったように振り返り、そう挨拶するとすぐに仕事を再開する。 菜瑠「あれ? あなた…」 佐祐理「はえ?」 菜瑠が不思議そうな顔をして舞へ近づき、顔を覗き込んだ。 菜瑠「えっと……」 舞「?」 無言で向かい合う2人を見ていると、妙な違和感を感じた。 しかしそれが何なのかは分からない。 菜瑠「ううん、なんでもない。ごめんね」 しばらくして何かを納得したような顔つきで舞から離れ、仕事を止めたことを詫びた。 祐一「どうしたんだ?」 菜瑠「ちょっと、知り合いに似てるなーと思って。でもこんなに若いはずないし、人違いだね」 祐一「他人の空似か?」 菜瑠「うん」 俺もこの街に越してきたばかりの頃、何度かそういうことがあった。 よく考えればここに来ている筈がないのに、後姿を見るとまさかと思うのだ。 今の菜瑠の場合、正面から見てもずっと考え込んでいたので余っ程似ていたのかもしれない。 祐一「そういえば佐祐理さんも舞も同じ大学だったよな」 佐祐理「はい。講義がなかったり午前や午後しかない日の空いた時間はよくここにいます」 それにしてもバイトとは無縁だと思っていた佐祐理さんがなぜこんなところで働いているのだろう。 聞いた話だと佐祐理さんが金に困ることは無いはずだが…。 祐一「佐祐理さんはなんでバイトしてるんだ?」 佐祐理「舞が働くと言うので一緒にやることにしたんです」 佐祐理さんらしい理由だった。 俺は舞が普段どんな生活をしているのか聞いたことがない。 しかし私生活のことを聞きまわるわけにもいかないので、舞から話してくれなければ俺が知ることは無いだろう。 そこで、まだふたりが在学していたときに聞いたある話を思い出した。 祐一「舞と2人で暮らすとか言ってたのはどうなったんだ?」 同じ大学に行くことが決まったときに、そんな話を小耳にはさんだ覚えがあった。 もしかすると、とっくに共同生活を始めているのかもしれない。 佐祐理「夏休み中にどうにかしたいですねーっ」 夏休みとは、まだまだ先の話だ。 もしかするとこのバイトは、そのための資金作りなのかもしれない。 佐祐理「ところで祐一さん、何か買うものがあって来たんじゃないんですか?」 祐一「ああ、そうだった」 危なく何時間も話し込んでしまいそうだった。 カゴを取ると適当に一周して夜食の調達。 アイスの後遺症もすっかり取れていたから、夕食を食べていない分少し多めにしておく。 佐祐理「舞ーっ、レジの方お願いー」 俺がレジへ行くと、商品の補充をしていた佐祐理さんが舞を呼んだ。 どうやら他の店員は休憩中らしい。 舞はちょうど一仕事終わったようで、佐祐理さんの声に軽く頷いてカウンターへ入りカゴから商品を取ってバーコードをレジへ読み込ませる。 舞「祐一」 レジのキーを打ちながらそう俺を呼んだ。 祐一「なんだ?」 舞「ひもじい?」 一瞬目の前が真っ白になったような気がした。 祐一「そうだな」 冷静に答えられないほど深刻ではないが、今のでだいぶ空腹感が悪化した。 舞「861円になります」 少し買いすぎたかと思いつつ財布から小銭を取り出す。 五百円玉が1枚に百円玉が3枚、十円が6枚、1円が1枚。 舞「ちょうどお預かりします。ありがとうございました」 レシートを手渡され財布をポケットへ仕舞う。 なかなか新鮮なやり取りだった。 祐一「それじゃあな。また来る」 菜瑠「またねー」 佐祐理「はい。ありがとうございましたっ」 そのまま自然に店を出ようとしたところで、名雪を置き忘れていることに気付いた。 コンビニの袋で片手が塞がっている俺は、もう片方の手で休眠中の頭を突付く。 祐一「名雪起きろっ。宿題やるんだろ」 名雪「帰って英語の宿題やるおー…」 寝惚けた答えだ。 英語の宿題は出ていない。 祐一「宿題は数学だろ」 菜瑠「え? 数学と英語じゃないの?」 祐一「なに?」 数学と英語? 記憶を探ってみるが、どうも英語の授業が思い出せない。 菜瑠「4時限目の先生が授業の最後に、配ったプリントの問題を解いて提出しろって…」 確かそのときは、必死に数学の宿題を終わらそうとしていたときじゃないか。 祐一「マジか?」 菜瑠「うん」 授業はちゃんと聞くものだと思う。 名雪「うにゅ、今日も遅刻しないで済みそうだねー…」 そう言いながら幸せそうな顔で寝ている名雪。 こいつはまだ何も宿題を終わらせていない。 もうすぐ9時で、これから帰って名雪が宿題を終わらせるころには10時を過ぎているかもしれない。 10時間以上連続で睡眠をとらなかったときの名雪は危険だ。 これまでの統計では、かなり高い確率で早朝マラソンが確定する。 走るだけならまだいい。 そういう日に限って猫だのジャムだの障害物に邪魔される可能性が高い。 祐一「頼むから起きてくれ名雪!」 思いっきり頬を引っ張るが、名雪は持っていた英語の教科書を使って払い除ける。 そのとき俺は重大なことに気が付いてしまった。 教科書やノートは名雪に借りればいい。 だが答えを書き込むプリントが無いじゃないか! 祐一「くそ、3往復目だっ」 俺は夜食が入ったコンビニの袋を持ち、走って夜の学校へ向かうのだった。 菜瑠「ちょっと、名雪どうするのっ。あと私の夜食はー!?」 ………。 その後、ようやく水瀬家に帰ったとき、コンビニで菜瑠からプリントを借りてコピーをとればよかった事に気付いた。 to be continued... あとがきのようななかがき 執筆者オモテの声「この作品は2002年夏のコミックマーケットで出したCD『にまいめ。』に収録している『奇跡の調律』の追加エピソードです」 執筆者ウラの声「ジャケット絵描いてて間に合わなかったやつだな」 オモテ「オリキャラをもっと目立たせようと思ったんだけど…」 ウラ「他のキャラも目立ってるぞ」 オモテ「なんでだろうね?」 ウラ「コラコラ。大体なぜ舞と佐祐理が出てくる。『にまいめ。』には出てこなかっただろ」 オモテ「あー、それはアレだ。今後の予定とか…」 ウラ「…出るのか」 オモテ「…多分」 |
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